2012年04月10日

テレメンタリー2012 どもってもいいんだよ 〜僕は吃音ドクターです〜


福岡市にある九州大学病院
耳鼻咽喉科
菊池良和医師(33)
吃音(きつおん)と脳の関係を研究する吃音ドクターである。
彼も吃音である。
彼が初めて自分の声が思うように出せないと気づいたのは小学1年のとき、
最初の言葉が出ずらく、苦しかったのを覚えている。
一生懸命話すけれども誰も認めてくれなく、笑う人もいた。
死んでしまいたいと思うこともあった。
しかし、親に心配をかけたくなくて病院に行きたいとも言い出すことができなかった。
「どうしてうまく声が出せないんだろう?」
それを知りたくて中学生の頃から医師を目指すようになった。

吃音は言語障害の1つであり、100人に1人あるとされている。
成長とともに症状がなくなる人もいるが、原因はわからず、治療法も確立されていない。
言語聴覚師との訓練でしゃべりやすくすることはできる。
多くの人は話すのをためらい、隠そうとしている。

吃音は5歳くらいまでに症状が出ることが多く、菊池さんは講演で親たちの悩みに答える。
育て方が悪かったのではないかと感じる親達に親の育て方が悪いのではないんだと伝える。
講演を聞く親達の中に中野さん夫婦の姿が。

息子の貴浩くん。
福岡県久留米市の小学校に通う小学5年生。
夢はプロ野球選手。
友達と遊ぶ間は症状を気にする様子はないが、
授業中、みんなの前で本を読む時、うまく本が読めない。
貴浩くんは週に1度、午後の授業を抜けて別の小学校に行く。
「ことばの教室」吃音のために組まれた特別なカリキュラムを受けるためだ。
ここで貴浩くんは先生と練習している。

貴浩くんにとって忘れられない出来事。
学校の集会で話そうとした時、言葉がつまってしまった。
そのときにおきたざわめき・・・
貴浩くんは笑われたのだと思って悔しかったことを覚えている。
今でも思い出すと涙が出てきてしまう。
当時の様子はビデオにも収められている。

ある日、両親が連絡を取って貴浩くんは菊池さんと会えることになった。
貴浩くんは自分と同じ悩みを持つ大人に会うのは初めてだ。
2人きりの面会の後、すぐに何かを書き始めた。
口に出せなかった思いを書き、菊池さんに手紙として渡したのだ。
あれから3週間、貴浩くんは授業で小さな発表をした。
両親も先生たちも貴浩くんが積極的になったと感じている。

吃音がある人たちが集まる自助グループ
福岡言友会
全国に32箇所あり、900人の会員がいる。
菊池さんは大学時代にここである言葉に出会った。
「どもってもいいんだよ」

菊池さんの研究で吃音の原因として脳の聴覚機能が関係することがわかってきた。
言語聴覚師になろうとしている学生たち向けての講演で彼らに呼びかけた。
「吃音で苦しむ人たちの良き理解者になってほしい」

菊池さんの夢は吃音があっても生きやすい世の中を実現することである。
吃音ドクターは今日も言葉を詰まらせながらエールを送る。



吃音・・・
私の周りにもたまに見かけることがありますね。
思っていることが口に出せないのは非常に辛いと思います。
特に多感な小中学生の頃に嫌な事を経験すると一生のトラウマになってしまうでしょう。
確かに吃音の方々と話をするともどかしい思いをすることがありますが、
その方々からいただくメールを読むと、
びっくりするほどまとまった文章を書かれたりします。
ただ話し方が人と少し変わっているだけで、差別や偏見の目で見るのはいけませんね。

















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posted by ドキュメントまにあん at 11:13| Comment(0) | テレメンタリー2012 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月05日

テレメンタリー2012 3・11を忘れない よみがえれ!荒波に眠る宝もの

外海でカキの養殖を行う石森さん
通常の養殖とは全く異なる方法だ。
荒波に揉まれることで味が変わってくるという。
その名も「荒波牡蠣」

あの震災の日、すべてが流された。
石森さんが一番ショックだったのは牡蠣処理場を失ったことだった。
牡蠣は徹底した衛生管理の下で出荷されるのが法律で義務付けられている。
その処理をする場を失ったのだ。

漁をやめてしまおうか・・・そう思ったことがあったが、
まだやり残していることがあった。
後継者である息子への技術の伝承だ。
息子だけではなく、多くの人々にも教えている。

処理場を再建すべく役所へ掛け合う。
想定額は1億円、2/3の補助を約束してくれたが、1/3の金額ですら捻出が難しい。
地元ラジオ局で支援を訴えた。
東京にも足を運び、東京労福協五団体セミナーで訴えた。
石森さんが考えたのは1口1万円からの「荒波牡蠣オーナー制度」
1万円でオーナーになった場合、
5000円は処理場建設への資金、残り5000円で卸値の牡蠣が届く。

3年前に奥さんを亡くし、仮設住宅で暮らす石森さん。
2人の息子とも現在は離れて暮らしている。
年末、たった一人で過ごす年越しは初めてだという。
一人で年越しそばをすすり、紅白歌合戦を見て涙ぐむ。

年明け1番の漁でよい牡蠣が採れた。
津波が体積していたヘドロを押し流してくれていた。
結果、牡蠣は格段においしくなっていた。

喜びもつかの間、処理場の建設が驚くべき事態になっていた。
なんと建設費が2倍ほどにふくれあがっていたのである。
人手不足、材料費の高騰により、単価が上がってしまうのだという。
日当10万円でも大工が確保できないのだ。
一緒に資金を出して再建しようとしている仲間のところへ説明にいくと、思わぬ反対があった。
息子の隼人さんはじめ若い漁師達からの反発だ。
彼らは費用の高騰に納得できないのだ。
思わず声を荒げる石森さん。
若い漁師達と溝ができてしまった。
肩を落とした石森さんに引退した父親が声をかけ、再び再建を誓う石森さん。

35年間牡蠣一筋でやってきたが、今年からわかめ漁を始めることにした。
息子、父親も一緒だ。
一緒に漁にでることでわだかまりも消えてきた。

震災から1年。
牡蠣はいつでも出荷できる状態にまで回復した。
今は処理場がないので地元の人達にふるまうだけだが、
牡蠣を食べて喜んでいる人達の笑顔が牡蠣漁復活を支えてくれる。



1年で漁が再開できるまでに復活できたのは驚きました。
外海で養殖していたからなのでしょうか?
天候や地震に左右されてしまう仕事は突如ひっくり返る可能性があります。
今回は自然を相手に仕事をする大変さが理解できた回でした。






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posted by ドキュメントまにあん at 10:55| Comment(0) | テレメンタリー2012 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月02日

テレメンタリー2012 闘う先生

福島県南相馬市にある産婦人科 原町中央産婦人科医院。
院長の高橋亨平先生(73歳)
がんを患いながら震災直後から診療を続けてきた。
がんと闘いながらこの地で診療を続ける姿に密着をした。

原発事故で南相馬市は市のほとんどが非難区域となった。
多くの住民が避難し、7万人いた住民は一時1万人に減少した。
薬品が市内に入らなくなり、ほとんどの病院が診療できなくなった。
そんな中、原町中央産婦人科医院は診療を続けてきた。
高橋先生は薬品が切れた後、猪苗代町へ非難するが、3日後には南相馬市へ戻ってきた。
薬は福島市から自衛隊によって運ばれた。
病院に戻った理由は一つ
「医者だから」

2011年5月、先生の体にがんが見つかった。
診療の合間を縫って福島市にある病院へ抗がん剤治療を受けに通う。
直腸と肝臓と肺が冒されていた。
抗がん剤の投与には5,6時間かかる。
体力は落ち、副作用でさまざまな症状が出てくる。

先生は南相馬市のこの病院で30年間働いてきた。
月に30件以上あった妊婦の診療も今では月に1件となってしまった。
しかし、先生に取り上げて欲しい と
夏ごろから少しづつ患者が戻ってきた。

妊婦がこの地で安心して出産できるようにするため、
先生は教師やボランティアに協力をお願いし、患者の家を除染した。
山のそばの家では木が多くなかなか除染が進まない。
そこで先生はある作戦を考えた。
レントゲン室の壁紙に使用する素材で作った特注品のカーテンを使おうというのである。
鉛の入った防線カーテン。
費用は先生が負担している。
これまでに負担した金額は200万円にものぼる。

今回の震災では多くの患者や知人が亡くなった。
その人々が置かれている死体安置所で多くの死亡診断書を書いた。
そんな中、生まれてくる命を支え続けていこうとあらためて心に誓った。

2012年、仕事はじめの日にも出産が。
ポンプで抗がん剤を投与しつつ診察を続ける。
震災後31番目の赤ちゃん。

先生は震災からの復興と再生を願う。


被災地で自分のがんと闘いながら患者と接する先生。
人生を懸けて仕事に臨んでいます。
いわゆる「覚悟」ですよね。
私にはそんな覚悟を持って仕事に向かえるのであろうか?
自分自身に問いかけずにはいられませんでした。

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posted by ドキュメントまにあん at 00:00| Comment(0) | テレメンタリー2012 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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